【ロッド・レーバー最強説】
【はじめに】
テニス史上最強の選手は誰かを論議する中で
ロッド・レーバーの名前を出さずにいるわけにはいかない。
やれボルグだ、やれサンプラスだと言っても、レーバーの偉業には及ばないからだ。
年間グランドスラム2度。これがレーバーの全てを物語っている。
しかし残念なことに、1968年以前の細かい記録はほとんど残っていない。
確認できるのは、グランドスラム優勝者とせいぜい準優勝者くらいである。
当サイトで常々主張していることだが、グランドスラムだけでテニスの全てを語ることはできない。
そのため、古い選手に関しては、あくまでも記録の一部であることを念頭においておく必要があるのだ。
そのことを前提に、この歴史的な選手を見ていくことにしよう。
【レーバー最強説の真相は】
レーバーが年間グランドスラムを達成したのは、1962年と1969年のこと。
2度目の達成は1度目から7年後ということになる。
レーバーの生涯獲得グランドスラムは全部で11だ。
2度の年間達成で8回だから、それ以外には3回しか優勝していないことになる。
最強のはずの選手にしては、意外に少ないと思わせる。
しかしこれには理由がある。
レーバーは、最初の年間達成の翌年(1963年)に、プロに転向する。
当時のグランドスラムはプロ選手の出場が禁止されていた。
つまりレーバーは1963年以降、グランドスラムに出場していなかったのである。
もしもレーバーが続けて出場していれば、
遥かに多くの優勝を飾っていたはずだともよく言われるが、
そのような仮定の話はさておき、
こうなると当時のグランドスラムには、どうにも気になる点が出てくる。
【グランドスラムのプロ選手出場禁止】
プロ選手の出場しないグランドスラムが
果たしてどれほどのレベルだったのだろうか。
当時のグランドスラムは、権威はあったが選手への報酬はほとんどなかった。
そのため、有力な選手は、ある程度実績を積むと
プロに転向してグランドスラムから離れていくことが多かった。
例えば1938年に(この年は奇しくもレーバーの生年にあたる)
ドン・バッジがレーバー以外唯一人にして史上初の年間グランドスラムを達成した。
勿論バッジは歴史に名を残すことになったわけだが、
その前年に当時最強であったフレッド・ペリーがプロ化を宣言してグランドスラムに出場しなくなっていたこともあり、
必ずしも絶対的な評価が下されているわけではないことも事実なのだ。
そしてバッジ本人も、より上を目指し、この翌年にはプロに転向してしまうのである。
このようなことは当時頻繁に発生していた。
そのため、1962年のレーバー最初の年間達成も
どれほどの価値だったのか疑問に感じる人がいてもおかしくはない。
【プロ選手用の大会】
これだけではレーバー最強説も根拠が薄いように思えるが、
レーバーには確かな実績があった。
グランドスラムがアマチュアの大会であった頃、
当然のことながらプロ選手にはプロ用の大会というのが存在した。
ウェンブリー、USプロ、フレンチプロの3つが中でも特に大きな大会だった。
これはプロ版のグランドスラムとも呼べる大会であり、
むしろプロ選手が一同に集うため、よりレベルの高い、
当時としては最高のトーナメントと言えるものだった。
その中でのレーバーの戦績を見てみよう。
ウェンブリー:
1964年-1967年まで4連覇、1970年にも優勝。1971年準優勝。
USプロ:
1963年から8年連続決勝進出。うち1964年、1966年-1969年まで計5回優勝。
フレンチプロ:
1963年から6年連続決勝進出。うち1967年、1968年の2回優勝。
《優勝12回。準優勝8回。》
プロ化した後も、かなりの強さであったことがわかると思う。
特に1967年には3大会全制覇を達成している。
【グランドスラムオープン化】
そして1968年、遂にグランドスラムはオープン化を迎える。
プロでもアマでも誰でも出場が可能になったのだ。
これ以降、グランドスラムは明確に最高の大会と位置づけられるようになった。
レーバーはオープン化後初のウィンブルドンチャンピオンになり、
そして翌1969年には2度目の年間グランドスラムを達成した。
今度こそは紛れもなく最強の証を手にしたといえるだろう。
強い選手が出ていなかったなどということはないのだから。
全盛期とも言える時期(25歳〜30歳)がすっぽり抜けたにも関わらず
レーバーはグランドスラム史上に名を残してしまった。
プロ入り前、プロ入り後、そしてオープン化後と
あらゆる状況の中で常に最高の成績を収めてきたレーバーは
紛れもなく最強選手であったのだ。
しかし、1970年代に入るとレーバーの時代は唐突に終わりを告げる。
グランドスラムオープン化時に既に30歳になっていたのだから致し方ない。
レーバーは1975年に第一線から退いた。
ただ、この頃既にATPランキング制度がスタートしていたが、
レーバーは最後までトップ10から落ちることはなかった。
【プレースタイル】
レーバーのプレースタイルはどのようなものだったか。
映像があまり多く残されていないのが残念だが
人々の記憶では、そのプレーは衝撃的だったようだ。
基本はサーブアンドボレーで、動きが速く、
当時としては異例のフラット系のハードヒットを打ち
トップスピンロブを使いこなしたという。
1991年の全仏決勝で、BBCの実況がコルダのプレーを観て、
ロッド・レーバーを思わせるとコメントしていた。
タイプ的に同じようなプレーだったとするならばこれは凄いことだといえる。
コルダの勢いのあるハードヒットは、とても30年前のプレーとは思えないものだったからだ。
※プレースタイルの詳細は【対決!レーバーvsローズウォール】を参照のこと。
当サイトで収集したレーバーの成績は、
不完全なものながら生涯勝率、グランドスラム勝率共にサンプラスを上回り、
トップのボルグに迫るほどのものである。
名前 | 生涯勝率 | GS勝率 |
ボルグ | 82.54% | 89.81% |
レーバー | 80.07% | 85.71% |
サンプラス | 77.44% | 84.23% |
【最も偉大な選手。ケン・ローズウォール】
レーバーと同時代に、それに匹敵する選手が一人存在した。
レーバー以上に偉大とさえいえるその選手こそ、ケン・ローズウォールその人である。
ローズウォールは1934年生まれ。レーバーよりも4つ年長の選手だ。
この選手は、現在でも偉大な選手として認知されているものの、
レーバー以上にその本当の活躍が闇に消えてしまっている選手だといえるだろう。
ローズウォールは1953年に、18歳という若さで全豪と全仏のタイトルを獲得した。
(因みにレーバーが初めて全豪で勝ったのは21歳のとき)
その後全豪と全米でも優勝を果たすと、1956年に早くもプロ化を宣言してしまう。
まだレーバーもエマーソンも登場する前のことであった。
このような早くから、ローズウォールはグランドスラムから姿を消していたのだ。
ローズウォールがプロであった間の戦績を見てみよう。
ウェンブリー:
1957年、1960年-1963年、1968年-1969年優勝。計7回。
1964年、1966年-1967年、1970年準優勝
USプロ:
1963年、1965年、1971年優勝。計3回。
1966年準優勝。
フレンチプロ:
1958年、1960年-1966年優勝。計8回。
プロ大会の優勝数は実に18回。ダントツの最多記録である。(レーバーは12回)
また、プロ大会決勝での両者の対戦成績は、ローズウォールの6勝4敗であった。
(生涯の対戦成績はレーバーの79勝66敗といわれる
両者の対戦についての詳細は【対決!レーバーvsローズウォール】を参照)
プロとしてのローズウォールは、レーバーに劣らぬ大選手だったのだ。
1963年に年間グランドスラムを引っさげてレーバーがプロテニス界に登場したときも、
依然としてローズウォールこそが第一人者と評価されていた。
1968年にグランドスラムがオープン化されるとローズウォールも出場し、
オープン化後初の全仏王者となった。この時既に34歳であったのだから驚きだ。
さすがに翌1969年のレーバーの勢いは止められなかったが、
レーバーが力を失った後の1970年代にも3回の優勝を重ね、
1953年から実に20年越しでのグランドスラム優勝者となった。
最終的にグランドスラム獲得数は8で、レーバーの11には及ばないし、
レーバーが出現する前から強く、レーバー以後にも強かったことから
レーバーさえいなければ最強だったというような見方をされることもあるようだが
それは事実ではなく、実はレーバーと互角の戦いをしていたことがわかると思う。
そしてレーバー以上に、というより他のどんな選手よりも遥かに息の長かった選手であった。
グランドスラム獲得数8は充分素晴らしい数であるが、それが
「21歳から34歳までの間がぽっかり空いている状態」
で達成されたものなのだから驚異とさえいえる。
ローズウォールと同じグランドスラム優勝数を誇るコナーズ、レンドル、アガシでさえ、
全ての優勝は21歳〜34歳の間に行われている。
間違いなくローズウォールこそテニス史上最も偉大な選手であったといえよう。
※両者の活躍については【対決!レーバーvsローズウォール】で
更に詳しく取り上げているので是非ご覧いただきたい。
戻る
このページに対するご意見等は
まで。