【チェコ人レンドル、アメリカ人レンドル】



 
レンドルはチェコスロバキアのオストラヴァに生まれ
現役時代のほとんどはチェコスロバキアの選手として活躍した。

同時代の女子選手であるナブラチロワは、
早くも1975年にアメリカに亡命し、1981年にアメリカ国籍を取得していた。
それと比べるとレンドルの帰化はずっと遅く
引退間近の1992年になってようやく国籍を取得している。

1992年といえばベルリンの壁が崩壊し、
チェコスロバキアの共産党体制が崩壊した後のことであった(共に1989年)。
このことはレンドルの国籍を考える上で極めて重要な出来事である。

元々レンドルはアメリカ的な考えを嫌っていたとされる。
少なくとも本人の談話からはそう判断することができる。
若い頃に執筆した著作の中でも、アメリカのデータ至上主義的な考えに異議を唱え、
もっと柔らかいヨーロッパ的な考えを支持する記述を確認することができる。

このレンドルの意見は、本人はアメリカに帰化する意思はなく、
ヨーロッパ人でいたかったことを物語る根拠ということになっている。

しかし、これには異論がないわけではない。
というのも、当時の国の事情を考えれば本の内容に国の検閲が入らないわけはなく
国のことを悪く書けるわけはないというのだ。

この辺りのところは正直、今となってはわからない。
しかし少なくともツアーを回るレンドルとは両親が一緒に行動していた。
ナブラチロワが亡命後肉親にほとんど会えなかったことを考えれば
レンドルには亡命の危険はないという判断を国がしていたとも考えられる。
おそらくその通りで、レンドルには亡命してまでも
アメリカ国籍を取得する意思はなかったのではないだろうか。


データ至上主義のアメリカ的な考えを否定したレンドルだが、
それとは裏腹に本人はテニスに対して物凄く勤勉で
データの収集、分析に相当の力を見せていた。これは驚くべきことであった。
通常、現役選手は古いデータなどにはあまり詳しくない。
せいぜい自分が小さな頃に観た選手のことをよく知っている程度だろう。

しかしレンドルは、はるか昔の選手のことも非常によく知っていた。
例えば戦後テニス界に最初にサーブ&ボレーを持ち込んだクレイマーの重要性を説き
また戦前のビル・ジョンストンのプレーの特徴をあげて
ストロークスタイルの変遷について解説したりもしている。
それが現役時代、それもまだNo.1になる前のことであるのだから驚かざるを得ない。
このレンドルのテニスに対する熱心で勤勉な姿勢は
当サイトの考えの下地になっているといえる。

亡命する意思はなかったとはいえ、レンドルは決して
アメリカの分析的な考えを全否定してはいなかったと思えるのだ。

レンドルは1989年には公の場でアメリカ国籍が欲しいとコメントするようになっていた。
この年は正にチェコスロバキア共産党体制が崩壊した年で、
そうした国勢を考えての発言だったのだろうか。
またレンドルはこの年に結婚しており、それが大きく影響してることも間違いない。
ただしサマンサ夫人とはそれまで非常に長い付き合いだっただけに、
結婚自体、情勢を考えた上での決断であったと見ていいだろう。

亡命してまでは欲しいと思わなかったアメリカ国籍だが、
いつからか正当な手段でなら手に入れたいと思うようになっていたということであり
1989年の社会情勢の変動が、絶好のタイミングとして訪れたということになるだろうか。



【金銭的な問題】

さて、共産圏の選手を語る場合に、金額的な問題はどうしても付き物となってくる。


チェコスロバキア国籍時代、
レンドルは賞金のほとんどを国に取られているといわれていた。

レンドル本人は、それは嘘であると明言した。
前述の著作にもそれを否定する文を載せている。
しかしこれも国の検閲を考えればそのまま鵜呑みにすることはできないだろう。
実際に亡命したナブラチロワの発言を考えれば尚更のことである。
もっとも、チェコスロバキアという国はナブラチロワ亡命の後、
その反省を踏まえてスポーツ選手を多少は優遇するようになったようなのだが。

レンドルは若い頃は多くの大会に出て、これでもかと賞金を稼ぎ続けた。
レンドルの戦績を追っていくとNo.1になった辺りから試合数が減ってくるので、
チャンピオンになると同時に試合数をセーブし始めたように見えるのだが
実はこれには裏のデータが隠されている。

減っているのはあくまでも公式試合に関してであり
実はエキシビジョンマッチには相当数出場していた。
87年には公式戦で約70勝をあげたのに対し、非公式戦では約50勝をあげている。
グランドスラムの分が約20勝になるから、差し引きすると
グランドスラム以外の公式戦と非公式戦がほぼ同じ数になるのだ。
この年レンドルは27歳であり、決して若い選手ではなかった。
終生休むことなく働き続けたことになるだろう。

何故非公式戦に出続けたのかは分からないが、一つ明らかなのは、
小さな公式戦に出るよりも、非公式戦に出たほうが賞金額が大きかったということである。


80年代後半のある時点での賞金総額を比較すると
コナーズが8百万ドル、ビランデルが7百万ドル、
ベッカーエドバーグが6百万ドル、マッケンローが11百万ドルであった時に、
レンドルの賞金額は脅威の20百万ドルであった。
金額が年々上昇するのはスポーツ界の常なので
当時のNo.1であるレンドルが最高であるのは当然なのだが
それにしても同時代人であるマッケンローにここまで差をつけているのは異例であろう。
レンドルはそれほどまでに稼ぎ続けた選手であったのだ。

こうまでする理由はなんだったのか。

やはり国に搾取され、国から稼ぐことを命じられていたのだろうか。
真実はわからないが、そうかもしれないと思わされてしまう部分があるのも事実であろう。


1990年、レンドルがウィンブルドンのタイトルを狙うために
全仏をスキップしたのは有名は話であるが
これがチェコスロバキアの共産党体制が崩壊した翌年であるという点は見過ごせない。
深読みかもしれないが、この時点でこれをやるのなら
もっと以前から非公式戦への出場を減らして大きな大会に照準を当ててもよかったはずである。
ところがレンドルはそれを一切しなかった。何故なのか。
単純に多くの大会に出るのが調子を保つことだと考えたのかもしれない。
実際にレンドルはそのやり方で多くの試合に勝っている。
しかし、それが出来ない状況にあったのという可能性も捨てきれないように思えてならないのだ。

今となっては全てが想像に過ぎず、
またレンドル本人もそれについて語ることはないだろう。

レンドルの置かれた状況がテニスキャリアに与えた影響とは
いかほどのものだったのだろうか。
真実は闇の中だが興味の尽きない話である。


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