【レンドルvsクーリエ】

 

※データはATPより引用
Jim Courier (USA) vs. Ivan Lendl (USA)
1989-08-28 U.S. Open Hardcourt R32 Ivan Lendl (USA) 6-1 6-2 6-3
1990-02-05 Milan Indoor Carpet QF Ivan Lendl (USA) 6-2 6-4
1991-04-08 Tokyo Hardcourt SF Ivan Lendl (USA) 6-4 6-1
1991-11-11 Frankfurt Indoor Carpet RR Ivan Lendl (USA) 6-2 6-3
Ivan Lendl (USA) leads 4:0
Hard: Ivan Lendl (USA) leads 2:0
Clay: Tied 0:0
Grass: Tied 0:0
Carpet: Ivan Lendl (USA) leads 2:0

【クーリエを寄せ付けなかったレンドル】

レンドルの4勝0敗。
クーリエレンドルから1セットも取っていない。

クーリエの出現は衝撃だった。
それまでのハードヒッターとは違い、ボールをそれこそ「ひっぱたく」というスイング。
レンドルにも匹敵する、いや、むしろそれを凌ぐのではないかと思えるパワーをひっさげ
突如現れた新星だった。

しかし、その強烈なショットもレンドルには通じなかった。

クーリエにはテクニックもあった。
ネットに出たり、ベースラインから様々な仕掛けをしたりしたが、
技の対決でもレンドルに軍配が上がった。

両者の対決は、レンドルのストロークテクニックを観るためのものとさえいえた。

ドロップショット、深いストローク、緩急、強打、コントロール、パス、ロブ・・・

クーリエの適度に有効な仕掛けが、
レンドルの技を目の当たりにする恰好の材料になってしまったのだ。

ストロークでレンドルを負かすのは容易なことではないのである。



【アメリカの4人目】

   
クーリエは、同時代にアメリカが生んだスター選手たちの中で最も登場が遅かった。
アガシはグランドスラム優勝こそ遅かったとはいえ、既に1988年に大ブレークしていたし、
チャンは1989年に全仏で優勝、サンプラスも1990年に全米で優勝して表舞台に登場していた。


クーリエがようやく名前を知られるようになったのは、
1991年の春先に、アメリカの2つの大会で続けて優勝してからだ。

そしてそれからが早かった。
同年全仏で優勝。全米でも決勝に進出し、あっという間にトップランクの選手に躍り出た。
翌年にはついに、他のライバル達に先んじてランキング1位を獲得した。

この頃のクーリエは手が付けられなかった。

・・・というイメージがあった。

しかし今、冷静に見てみると必ずしもそうではなかったようだ。
もちろんクーリエのパワーは凄まじく、勝つときは強さを存分に見せ付けたのだが、
決してレンドルマッケンローのような常勝の選手ではなかったことがわかる。

クーリエが最も活躍した時期の年間成績を表にしてみた。

年度勝率タイトル数
1991年582074.4%3
1992年691879.3%5
1993年581777.3%5

悪くない数字だが、最強選手というには不十分である。


クーリエが活躍できた背景には多少の幸運もあったと考えられる。
90年代前半はレンドルが下降した時期であり、期待のベッカーもいまいち伸びてこなかった。
また、天敵のサンプラスも完全にブレークしきっていなかったのだ。
敵はエドバーグ一人だけだったといえる。

対戦成績を見ると、
エドバーグには6勝4敗と勝ち越していたが、
レンドルには0勝4敗、ベッカーには1勝6敗、サンプラスには4勝16敗と派手に負けている。

クーリエの台頭は、時代の間隙を縫った
実にタイミングのいいものだったといえるだろう。



【実は近代テニスの先駆者】


そんなクーリエだが、実は近代テニスのスタイルを先取りしている部分が多い。

例えばフォアの逆クロス
レンドルが最初に効果的に用いたショットだが、クーリエはこれを更に徹底させた。

レンドルは、あくまでも流れの中で、これが打てる体勢になるよう、組み立てを行ったが
クーリエの場合は多少無理があっても強引に回り込んで打ち込んだ。
決して綺麗ではなく、上手いやり方だとも思えなかったのだが、
フォアなら一撃で決められるという絶対の自信がそれを可能にさせていたのだろう。

   
そしてその後に登場してNo.1になったフェデラーヒューイットロディッククーリエに近い回り込みかたをした。
フォアハンドが中心と考えられる近代テニスの代表的なプレーとなっていったのだ。

また、サーブも速く、ストローク主体でありながらネットプレーもこなす。
このスタイルは、そのまま、後の多くのプレイヤーに共通する。

ストロークに関しては、後にアガシがより完成された打ち方を広めるので
クーリエが先駆者であるイメージが薄いが、基本的にはクーリエアガシ同様
ライジングショットやブロックショットを使いこなす選手だった。

このように、スタイルとしては現代に通じるプレーを見せたクーリエだが、
後の選手の模範となりきれない決定的な問題もあった。


それは、フォームがあまりにも独特だったことである。
バックハンドはテニスでは厳禁とされる完全な野球打ちだったし、
フォアやサーブも筋力の使い方が特殊で誰も真似できず、参考にならないものだった。

最強時代のクーリエを見て、
「何年か経って、筋力に負担がかかってから強さを維持できるかが問題だ。」
と言ったアーサー・アッシュの言葉は正にその通りとなってしまう。

サンプラスが台頭してくるのとほぼ同時に、クーリエは全く勝てない選手になってしまうのである。



【プレースタイル】


ネットプレーも器用にこなしたが、基本的にはグランドストローカーである。

サーブは、かなり速かった。
極端に厚いグリップだったので回転はかけずにフラット系だった。
サービスダッシュも仕掛けたし、サービスエースもよく決めていた。

ネットプレーのレベルも高かった。フォームのぎこちなさから不器用にも見えたが、
実際にはかなりの腕前で、アガシチャンよりも上手かった。
ただ、本人はそこまでのものを持っているとは感じなかったのか、
あるいはよほどストロークに自信があったのか、
グラスコートでサーブ&ボレーに切り替えることはしなかった。

フォアハンドクーリエ最高の必殺技だった。
ボールを横殴りにひっぱたくので、サイドスピンがかかり、特殊な軌道になった。
結果、強打しながらも外に逃げていくという、逆クロスに非常に有効なショットになった。
また、テイクバックがコンパクトで、振り回さない打ち方も出来たので
どんな球にも柔軟に対応することが可能だった。

バックハンドは、フォアに比べて威力が落ちるがそれでも充分強烈なものだった。
やはりテイクバックがコンパクトなので、合わせるショットにも対応できた。
ただ、フルスイングに関してはアガシの振りぬくショットに比べて威力は少し下だった。
また、両手打ちの選手としては珍しく、優れたスライスバックハンドを持っていた。
ハードヒットのイメージとは裏腹に、ストローク戦ではスライスでペース配分することも多かった。

フットワークも軽やかで、かなり足の速い選手だった。
ネットダッシュやフォアに回り込む動きなど、試合では軽妙に動き回った。
自慢のハードヒットもアガシほど全身を使わないので、ショット後の動き出しは早かった。
ピンチになると必ずネットダッシュをかける積極性にも好感が持てた。

クーリエは、プレースタイルも能力的にも申し分のない選手だった。
それだけにトップ選手としての期間が短かったのが非常に残念である。


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