サリエーリ音楽塾 フンメル
Johan Nepomuk Hummel (1778-1837)

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ヨハン・ネポムク・フンメル
Johan Nepomuk Hummel


1778年にスロヴァキアのプレスブルク(当時はハンガリー)に生まれた。

若くしてウィーンに移りモーツァルトにピアノを師事し、その後、
クレメンティ、アルブレヒツベルガー、サリエリ、ハイドンにも学んだ。

作曲家としてだけでなくピアニストとしても名声を獲得し
ベートーヴェンと人気を二分するほどであったという。

ベートーヴェンは耳の病気を悪化させて
演奏家としてのキャリアを継続させられなくなったが、
フンメルは終生ピアニストとしての活躍を続けることができた。
19世紀前半には大ピアニストといえばまずはフンメルのことであった。
若きショパンリストフンメルを目標としていた。

師であるハイドンの跡を継いでエステルハージの楽長に就任し、
その後シュトゥットガルトとワイマールの楽長を歴任した。
最後のワイマール楽長は後にリストに引き継がれることになる。

門下にはツェルニー、メンデルスゾーン、ヒラー、ヘンゼルト、
タールベルク
など多くの著名な音楽家が集まった。

地位的にも18世紀と19世紀、すなわち古典派とロマン派を結ぶ
重要な位置にいる音楽家であったことが分かる。

1837年にワイマール楽長職のままこの世を去った。

《ツェルニーのフンメル評》

図)カール・ツェルニー(Carl Czerny 1791-1857)

ツェルニーベートーヴェンの弟子として知られ、
フンメルと同じくウィーンで作曲家、ピアニスト、教師として活躍した。

フンメルは8歳でモーツァルトに弟子入りし
ツェルニーは9歳でベートーヴェンに弟子入りした。
また、2人には、スラブ系の出身であるという共通点がある。

ツェルニーは自叙伝の中でフンメルを取り上げており
第一印象について「趣味の悪い服に下品な顔」と散々な描写をしている。
しかしひとたびフンメルがピアノを弾くと、
それまでの悪印象を全て吹き飛ばすほどの絶賛を浴びせた。

当時ウィーンではベートーヴェンフンメルが大人気で、
ツェルニーによれば、町がベートーヴェン派フンメル派とに
分かれていたほどだったという。

ベートーヴェンはレガートを重視した華麗で力強い演奏を好み
フンメルは技巧的に裏づけされた清廉で透明な演奏を好んだ。
ツェルニーベートーヴェンの弟子であり、
その作品の全てを熱心に研究するほどの愛好家であったが
ピアノ奏法についてはフンメル派であったことを告白している。
ツェルニーは後にフンメルにも弟子入りして教えを受けるようになった。

《作曲家としてのフンメル》


フンメルの作品の大半はやはりピアノ曲であり
出版された作品の実に半数を占めている。

ピアノのための独奏曲や協奏曲は、
モーツァルトの流れを汲みながらも
初期ロマン派にしっかりと足を踏み入れている。
その作風は後の多くのピアニストに影響を与えた。
特にショパン「モーツァルト、ベートーヴェン、フンメル」
三者を同列に並べて賛辞を与えたほどだった。

またピアノ曲以外でも多彩な分野で作品を残している。

ミサ曲をはじめとする宗教声楽曲についてはハイドンの後継者であるといえる。
モーツァルトベートーヴェンにもミサ曲の傑作はあるが
この分野にメインで取り組んでいたとは言えず、
ハイドンからフンメルを経てシューベルトへと至るのが
ドイツにおける古典派からロマン派へのミサ曲の流れといえるだろう。

その他、オペラ、バレエ、劇音楽、室内楽、協奏曲など
幅広い分野にまたがる作品を手がけて大音楽家としての地位を確立した。
フンメルが手がけなかった唯一のジャンルは交響曲であった。

《フンメルとリスト》

図)フランツ・リスト(Franz Liszt 1811-1886)

フンメルは生前の名声とは裏腹に死後その存在が忘れ去られていった。

後年ワイマールの楽長にリストが就任したとき、
フンメルの遺族はこれに強く反対した。
最高のアイドルであるリストがかつてのフンメルの地位を継ぐことで
フンメルの影が薄くなってしまうことを恐れたのだという。

結果として、遺族の心配のとおり、
フンメルの名は忘れられていくことになってしまった。

リストは若い頃フンメルに師事しようとその門を叩いたが、
金額があまりに高かったので諦めてツェルニーの元へ向かったという逸話がある。
リストの恨みがフンメルの名を葬り去った、などということはないだろうが、
なんとも因縁めいたものを感じてしまう。

もっとも、フンメルは当時最高の音楽家だったので、
ある程度授業料が高額になるのは自然であり、それでも弟子が多くいたことから、
決して法外な値段を突きつけたわけではないだろう。
当時のリスト父アダムと共に演奏活動をしながら放浪のような生活をしていたので
高い授業料が払えなかったのも仕方のないことだったのだ。

リスト本人も後にフンメルの作品を多くコンサートで取り上げているし、
ワイマール楽長職への就任時にはフンメル作品の編曲版を作成して
遺族への配慮をみせているなど、フンメルへの敬意を忘れることはなかった。

《忘れられた名声と近年の再評価》


フンメルの名が忘れられてしまった原因を探っていくと、
一つには、交響曲を作曲しなかったことが上げられるのではないだろうか。

ライバルであるベートーヴェンは、耳の悪化によって演奏活動を停止し、
結果として作曲に専念することで交響曲の名作を生み出すことになった。

しかしそれとは違ってフンメルは生涯演奏家として活躍することができた。
むしろ作曲家よりもピアニストとしての名声が高かった人物である。
当時ピアニストにとって最も活躍できる曲はなんといってもピアノ協奏曲であったから
フンメルにとってはピアノ協奏曲こそが器楽の王であり、
交響曲は作曲の必要のない曲だったのかもしれない。

フンメルの作品を聴いてみると、オーケストラ部にも充分な魅力があり、
1曲でも交響曲があったならと惜しい気持ちにもなるのも事実だが。

また最近までは、聴衆の嗜好も、まずは交響曲という暗黙の偏りがあった。
特にドイツ系の作曲家に対してはその傾向が強かったといえる。
交響曲を手がけてない作曲家への評価が不当に低かったのも仕方ないことだろう。

しかし近年はあらゆるジャンルの曲が注目されるようになってきており
多くの知られていなかった作品の復興が活発化している。
現在フンメルの再評価は同時代の音楽家たちの中でもトップクラスなので、
今後多くの名盤の登場が期待できるのではないだろうか。

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