サリエーリ音楽塾 サリエリ
Antonio Salieri (1750-1825)

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アントニオ・サリエリ
Antonio Salieri


1750年イタリアのレニャーゴに生まれた。
兄フランチェスコも音楽家でタルティーニに教えを受けたヴァイオリニストであった。

1766年にイタリアを訪れていたウィーン宮廷楽長ガスマンの目に留まり
弟子としてウィーンに移り住むことになった。
ウィーンでは当時随一のオペラ作曲家グルックとも親交を持つことができた。

以後、終生ウィーンにとどまり主にオペラ作曲家として活躍した。
1788年には宮廷楽長になり、死の前年の1824年まで長きに渡ってその地位にあった。

1804年以降は作曲よりも教師としての活動に重きを置き。
その門下には多くの優秀な音楽家が集まった。

生前の絶大な人気とは裏腹に
同時代の多くの作曲家と同様、死後忘れ去られた存在となっていった。

映画「アマデウス」でモーツァルトのライバルとして登場したことで
その名が知られるようになったが、音楽的な面よりも
モーツァルトへの嫉妬や対立、毒殺説などのスキャンダラスな面が
クローズアップされてきたことは事実であろう。

《演奏家、教育者として》


サリエリは演奏家や教育者としても活躍した人物であった。

ハイドンのオラトリオ「天地創造」の初演ではチェンバロを担当し、
ベートーヴェンの「ウェリントンの勝利」では打楽器パートの副指揮者を担当した。
また、一般にライバルと目されているモーツァルトについても
交響曲第40番ト短調、レクイエム、戴冠式ミサ曲など多くの作品を指揮している。

教育者としての活動は更に目覚しいものがあり、
その門下生には、ベートーヴェン、ツェルニー、シューベルト、
フンメル、モシェレス、リストといった世界的な音楽家が名を連ねている。
またモーツァルトの息子、フランツ・クサヴァーも教えている。

サリエリは若くして両親を失っており、師である宮廷楽長のガスマンが父親代わりであった。
サリエリは無償で自分を教えてくれたガスマンに対する恩義を終生忘れず
自分も同じように報酬なしで若い人に教えようと心に誓ったといわれる。
慈善活動にも熱心で、経済的に困っている音楽家の支援を積極的に行った。

嫉妬や毒殺といった暗黒面ばかりが強調されてきた従来のサリエリ像だが
本来の姿とは随分とかけ離れたものであったことがわかる。

《サリエリvsモーツァルト》

図)映画「アマデウス」ポスター

サリエリといえばモーツァルトとの対立に触れないわけにはいかない。

サリエリがモーツァルトの才能に嫉妬して毒殺を企てたという有名な説は、
現在ではさすがに荒唐無稽なゴシップとしてしか扱われていない。

しかし、噂そのものはサリエリ存命中から既に広まっていた。
ロッシーニはこの件について直接サリエリに尋ねたことがあり、
またベートーヴェンの筆談帳にもこの話が載せられている。

絶えることのない噂にサリエリは相当心を痛めていたようである。
晩年には弟子のモシェレスに涙ながらに無実を訴えたが、
それが逆に怪しいと変に勘ぐられてしまうという不幸もあった。

この根拠のない噂は広がりを見せ、
晩年、精神病で入院したサリエリが自ら告白したという話も登場した。
しかし実際にはサリエリが入院したのは痛風の治療のためであり、
精神病院に入院したわけではなかったということは確認されている。

モーツァルトの書簡の中にも、
自分が出世できないのはサリエリの妨害のためだという記述が残されている。
サリエリ嫉妬説の根拠ともされてきた一文だが、
実のところモーツァルトの文はかなりたちが悪く、
他人の悪口などを平気で書き殴るところがあるので
それをそのまま鵜呑みにすることはできないだろう。
むしろモーツァルトの素行の悪さには定評があったから
出世できなかったのはそのためだったと考えるほうが自然ではないだろうか。

今日では否定されているサリエリの毒殺説だが
題材としては多くの人々の興味を惹いたようで、文学作品としても取り上げられた。
1830年にはロシアの詩人プーシキンによる劇詩「モーツァルトとサリエリ」が発表され、
それを元にしたリムスキー=コルサコフのオペラ「モーツァルトとサリエリ」も作られた。
また1979年にはシェーファーによる戯曲「アマデウス」が出版され
それを元に映画「アマデウス」が製作されている。

ではこのような噂が何故広まったのだろうか。
一説にはウィーンの町でドイツ派とイタリア派の対立があり、
ドイツ派によるイタリア派駆逐の一環として、
長年ウィーン音楽界に君臨してきたサリエリが標的とされたのではないかとされている。
もちろんこれもあくまでも噂に過ぎず確たる証拠はないのだが。


《サリエリとモーツァルトのレクイエム》

図)楽譜:モーツァルト「レクイエム」

サリエリはモーツァルトの作品を高く評価していた。
宮廷楽長としてモーツァルト作品を多く演奏した記録が残っており、
「魔笛」を聴いて、これこそオペラだと絶賛したといわれている。

またサリエリは1793年にはモーツァルトのレクイエムを指揮している。

シェーファーの「アマデウス」では、モーツァルト最後の作であるレクイエムは
サリエリが依頼し、完成した後にモーツァルトを殺害し、それを奪って
自らの作品にするよう目論むという劇的な展開に仕立て上げられているのだが、
もちろんこれは完全にフィクションである。

モーツァルトのレクイエムにまつわるきな臭い話は
モーツァルト側に一方的に存在するものであり
サリエリは随分と迷惑な濡れ衣をかぶせられてしまったことになる。

サリエリはモーツァルトの葬儀に参列しているがモーツァルトの妻のコンスタンツェは
末息子フランツ・クサヴァーと共に友人宅におり葬儀には参列しなかったとも言われている。

この時フランツ・クサヴァーは僅か1歳であった。
一説にフランツ・クサヴァーはモーツァルトの子ではなく
モーツァルトの一番弟子であるジュスマイアーの子ではないかと言われている。
そしてジュスマイアーはモーツァルトのレクイエムを完成させた人物であった。

因みにフランツ・クサヴァーもジュスマイアーも後にサリエリに教えを受けている。

《作品》


古典派といえば、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの3巨頭以外は
不当に無視される時代が続いてきた。
その後、多くの作曲家が次第に再評価されるようになってきたが
サリエリに関してはまだまだ「アマデウス」のお陰で
名前だけが有名になっている状態だといえるだろう。

古典派の作曲家の場合、協奏曲や交響曲といった
器楽分野で力を発揮していると再評価されやすいという傾向にあるのだが、
サリエリは器楽よりも劇場で力を発揮する生粋のオペラ作曲家であった。

もちろん交響曲も作曲したのだが、
当時のオペラ作曲家にとって交響曲はオペラやコンサートの前座に過ぎず、
サリエリも現在の水準でいう力作を作ったわけではなかった。
器楽であれば宮廷のサロンで演奏される小規模な室内楽のほうに佳作が多い。

オペラは一部の根強いファンがいるが
舞台を伴う前提で作られているので音楽だけでは再現が難しいことも多く
よほどの名作、人気作でない限り広く聴かれることはない。
また、あくまでも当時の人々を楽しませるために書かれたものなので
現在の再現で当時のままの人気の全てを獲得することは難しいだろう。

最近は映像ソフトの流通によりだいぶオペラの復刻も増えてきたが
やはりサリエリの音楽が一般のレパートリーに乗るようになるには
まだまだ多くの時間が必要だといえそうである。

今の状態ではサリエリの音楽を作品ごとに取り上げるのは難しいので
当サイトでは、作品単位ではなくアルバム単位で見ていくこととする。

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