【当サイトの歴史的選手】


青色選手の紹介】

ここで当サイト【収集データ】で扱っている青色選手の簡単な紹介を。

《ジョン・ニューカム》
 
 1960年代後半に登場した、レーバー以降最高のオーストラリア選手。
 グランドスラム優勝は7回で、トニー・ローチと組んだダブルスも有名だった。
 1973年後も第一線におり、ATPランク1位の経験もある。
 ただし、その直後にコナーズの台頭とぶつかってしまい
 1974年の2位を最後に翌年からはトップ10外に落ちてしまう。
 もう少し前にランキング制度があれば、強さがもっと明るみに出た選手だったろう。

《トニー・ローチ》
 
 1960年代オーストラリアテニスが全盛を誇った頃のサウスポーのネットプレイヤー。
 しかし、実力はあったが状況が悪く、レーバーエマーソンに幾度も阻まれた結果、
 グランドスラム獲得は1966年全仏の1回だけだった。
 今では、レンドル、ラフター、フェデラー等のコーチとしてのほうが有名かもしれない。

《アーサー・アッシュ》
 
 グランドスラム獲得は全米(1968)、全豪(1970)、ウィンブルドン(1975)それぞれ1回の計3回。
 1980年まで現役だったのでランキング制度にも顔を出しており、1975年には2位にまで達している。
 男子初の世界的な黒人プレイヤーということで話題を呼んだ。

《スタン・スミス》
 
 1971年全米、1972年ウィンブルドンで優勝。
 日本人の記録として重要なのが、1974年全仏で神和住純スタン・スミスを破っていることだ。
 これは、1920年に清水善造チルデンに「4-6 4-6 11-13」という大健闘による惜敗を喫して以来の快挙だった。

《ヤン・コデス》
 
 全仏1970年、1971年連覇。1973年にはウィンブルドン優勝。
 全仏とウィンブルドンの両方で優勝している選手は多くないので、貴重な記録を達成した選手だといえる。
 しかし、1973年のウィンブルドンは、大会側への抗議のため、
 選手たちのボイコットが相次ぎ、主要選手のほとんどが欠場するという状態で開催された。
 また、この年はボルグが最初にウィンブルドンに出場した年でもあった。
 つまりコデスは、前後のチャンピオン達の間隙を上手く縫って優勝をさらっていったことになる。
 グランドスラムの優勝は3回だが、全タイトル数が8というのもことのほか少ない。

《トム・オッカー》
 
 大きなタイトルこそなかったが、成績の安定していたオランダ人選手。
 ネットプレイヤーだったが、強烈なトップスピンを使ったことで知られた。
 グランドスラムの最高は1968年全米で、この時は決勝でアッシュに敗れた。
 シングルスでも活躍したが、それ以上にダブルスでの活躍が有名だ。
 ダブルスタイトル78は2004年にウッドブリッジに抜かれるまで最高記録だった。

※ レーバーローズウォールについては 【ロッド・レーバー最強説】を参照
 また【70年代前半史】の中でも何人かの選手が取り上げられているので参照のこと。



青色選手総合ポイント】

当サイトの【総合結果】では青色選手は対象外だが、
敢えて当てはめてみるとどのような順位になるだろうか。
1968年以降に限定されたデータということになるがポイントを割り出してみたい。

ポイントは、1位と2位の間だったら「9.5」
1位と2位の間に2人いたら「9.5」「9.25」
3人いたら「9.75」「9.5」「9.25」のように割り当てていくこととする。

【総合結果(1968年以降)
名前ポイント
1レンドル138.00
2コナーズ129.00
3マッケンロー123.00
4ボルグ115.00
5サンプラス98.00
6レーバー86.50
7アガシ65.00
8ニューカム59.00
9アッシュ57.25
10ベッカー56.00
11エドバーグ51.00
12ビラス51.00
13ローズウォール47.50
14ナスターゼ21.00
14ビランデル21.00

 
やはりレーバーローズウォールの数値には感心させられる。
2人とも1968年以前のほうがキャリアが充実していると思われるからだ。
特にローズウォールは、普通の選手なら引退しているような時期がスタート地点なのである。

 
ニューカムアッシュはキャリア成績がかなり似ており、
ここでの数値も非常に近いものとなっている。
どちらかといえば、ニューカムのほうがグランドスラムでより多く勝利し、
アッシュのほうがより長い期間活躍した。


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