【パンチョ・ゴンザレス最強説】
パンチョ・ゴンザレス(Pancho Gonzalez)
本名:リカルド・アロンソ・ゴンザレス(Ricardo Alonso Gonzalez)
1928年生まれ。アメリカの選手。両親はメキシコ出身。
1950年代にプロテニス界のトップとして君臨し、
アマチュアテニスを完全に蹂躙しきった陰の史上最強選手である。
戦前から「プロvsアマ」という図式はテニスファンの関心を惹いてきたが、
ゴンザレスの登場により、それは完全に「プロ>アマ」という図式に作りかえられることになった。
※テニス界におけるプロ、アマの関係を理解してからお読みいただくとよりわかりやすいだろう。
その辺りの詳細は、【テニス史を巡る】を参照いただければと思う。
【ジャック・クレイマー】
パンチョ・ゴンザレスを取り上げる前に、まずジャック・クレイマーに触れなければなるまい。
本名:ジョン・アルバート・ジェイク・クレイマー(John Albert Jake Kramer)
1921年生まれ。ゴンザレスより7歳年上。
1943年に全米の決勝に進出し、その後の活躍を期待された選手だったが、
第二次大戦が激化したため数年間テニスキャリアが中断された。
戦後1946年に復帰すると、ほぼ敵なしの最強ぶりを発揮、1946-47年に全米を連覇、
47年にはウィンブルドンも制し、そのままの勢いで1948年プロ入りを果たした。
この時のプロテニス界では、リグスとバッジの2人が最強の座を分け合っていたが、
クレイマーが参入すると、すぐさまトップの座を奪い取った。
それまでの最強選手、ボビー・リグスとの対戦成績は69勝20敗であったという。
【ゴンザレス登場】
クレイマーがプロに転向した直後にパンチョ・ゴンザレスが登場する。
ゴンザレスはクレイマーの後を受けて1948-49年に全米連覇を達成し、アマチュアランキング1位になった。
そして翌1950年にクレイマーの誘いでプロ入りを果たした。
しかし、1950年、ゴンザレスにとってのプロ1年目は失意の年となった。
プロテニスのグランドスラムとも言うべきウェンブリーでは優勝を飾ることができたものの、
ジャック・クレイマーとのエキシビジョンツアーでは実に27勝96敗という惨憺たる結果に終わってしまったのである。
そして翌年のツアーメンバーからは外れることになった。
※当時のプロテニスは、エキシビジョンツアーとトーナメント大会とで構成されていた。
トーナメント大会は現在と同じで、勝ち上がって優勝を決めるものである。
一方のツアーは、主要な選手がセットとなり(数人。時には2人ということも)
各地を転々としてエキシビジョンマッチを何試合もこなしていくというものであった。
【1951-52年】
1951年以降、ツアーから外れてしまったゴンザレスだが、
前年の大敗の鬱憤を晴らすべく多くのトーナメントに出場し好成績を連発した。
トーナメントに関する限り、ゴンザレスはずば抜けて優秀な選手であった。
既にこの時、ゴンザレスは変化を遂げていたとする見方もある。
この時代、テニス界にランキング制度は存在しなかった。
テニス専門誌などの非公式なものは存在していたが、
誰がその年のNo.1だったかという議論は、いまだにテニスファンの間で行われる。
1950年までクレイマーが1位だったことはほぼ確実だ。
そしてクレイマーの引退は1953年なので、
1954年以降がパンチョ・ゴンザレスの天下であることも確実である。
しかし中間の1951-53年までが、どちらという意見もあり判然としない。
クレイマーは、自ら、1953年に引退するまでずっとトップであり続けたと宣言した。
事実、クレイマーは引退までエキシビジョンツアーで最高の成績を収め続けたのだ。
一方、ゴンザレスにも言い分はあった。
1951年以降、2人の対戦はトーナメントに限定されていたが、全てゴンザレスが勝利していたのだ。
対戦数は51年に2回、52年に1回と非常に少なかったものの、いずれも大きな大会であった。
ゴンザレスは1951年には既に大敗のイメージを完全に払拭していたというのである。
この頃、クレイマーはプレイヤーでありながらプロモーターとしても活動しており、
ツアー興行の運営に力を入れていて、トーナメントへの出場はあまりしなかった。
一方のゴンザレスはツアーには参加しなかったが代わりに大きなトーナメントで優勝を重ねていた。
両者はツアーとトーナメントとで棲み分けをしていたことになる。
分かりやすく分類すれば、試合数はクレイマーのほうが多く、
大きな勝利はゴンザレスのほうが多かったということになるだろう。
※1952年に関してはクレイマーもゴンザレスも多くの試合には出ておらず、
パンチョ・セグラをNo.1とすべきだという意見も有力である。
【1953年】
クレイマー最後の年、1953年となると少し事情が異なる。
この年、アマチュアテニス界からフランク・セッジマンという大物がプロに参戦してきたのだ。
セッジマンはクレイマーとのツアー興行に参加し、同時にトーナメントにも積極的に出場した。
セッジマンは、プロトーナメントのうちフレンチプロとウェンブリーで優勝した。
決勝の相手はいずれもパンチョ・ゴンザレスだった。
ゴンザレスは残る一つの全米プロで優勝したので、トーナメントでの結果は同じくらいと言えるが、
セッジマンのインパクトは強烈だった。
そして、クレイマーとセッジマンの興行は、クレイマーの54勝41敗という結果で終了した。
興行でクレイマーにここまで接近した選手はこれまで存在せず、ここでもセッジマンの存在感は大きかった。
しかし、最終的にクレイマーがツアー最高成績を収めたため、
この年のランキング1位はクレイマーだったということになるだろう。
※ただ、今日的な制度を念頭に置けば、
エキシビジョン限定だったクレイマーやトーナメント限定だったゴンザレスよりも、
両方で好成績を収めたセッジマンのほうがNo.1にふさわしいとする考えがあってもよさそうだ。
クレイマーは背中の怪我のためにこの年で引退し、その後興行の運営に専念することになった。
【1954年以降】
1954年、興行主となったクレイマーが、ツアーの中心に選んだ選手こそ誰あろうパンチョ・ゴンザレスであった。
クレイマーはゴンザレスがトップ選手であることを認めており、これに大物をぶつけることで興行の盛り上がりを狙った。
ゴンザレスは強敵セッジマンとの2年に及ぶツアーに挑んだ。
前年、プロ大会決勝で2度も苦杯をなめさせられた相手だったが、結果はゴンザレスの46勝30敗だった。
激戦にはなったが、ゴンザレスは最強であることを示すことに成功したのだ。
ゴンザレスはただ強いだけの選手ではなかった。
一度苦戦した相手でも、次には必ずそれを攻略するという上昇能力を備えていた。
こういう実例があるだけに、クレイマーに大敗を喫しても翌年には払拭できていた
と語った本人の言葉も信用に値する重みがあると感じられるのだ。
セッジマン以外にも強豪が相手として選ばれた。しかし
プロNo.2のパンチョ・セグラには30勝21敗
1947年全豪優勝者ディニー・ペイルズには47勝7敗
1952年全豪優勝者ケン・マグレガーには15勝0敗
と、ゴンザレスは全てを退けた。
1956年にはトニー・トレイバートがプロに参戦した。
トレイバートは前年に全豪以外のグランドスラム3大会を含め18大会で優勝、
年間106勝7敗という驚異的な成績を収めた文句なしのアマ最強選手だった。
ゴンザレスはトレイバートとのツアーに挑んだが、74勝27敗とこれを一蹴してしまった。
フレンチプロでは、トレイバートが決勝で勝利したが、ゴンザレスのNo.1の座が揺らぐことはなかった。
1957年にはケン・ローズウォールが参戦した。
10代でグランドスラムを獲得した実力者であり、後にはプロNo.1にもなる選手だが
ここでもゴンザレスは51勝26敗でこれを圧倒した。
ゴンザレスは、ローズウォールの才能を認めながらもそのフォアとサーブの弱点を挙げ
「自分とセッジマン以外になら誰にでも勝てる選手」と評した。
1958年にはルー・ホードが参戦した。
この参戦は、ゴンザレスの王座を最も揺るがすものだった。
ホードもトレイバート同様、年間グランドスラム3タイトルを獲得したアマ最強選手だったが、
何よりもパワー抜群で、能力、才能共ずば抜けており、今までのアマ王者とは別格の選手であると考えられた。
事実、最初の27戦は、ホードが圧倒的な力で18勝9敗とゴンザレスをリードした。
遂にゴンザレスの牙城が崩れるときが来たかにも思えた。
しかし、ゴンザレスが本領を発揮するのはここからであった。
クレイマー、セッジマンを攻略してきたように、ホードのテニスを覚え、その対抗手段を生み出していった。
結果、残りの試合では大幅に勝ち越すことに成功し、最終的に51勝36敗という成績で決着をつける至ったのである。
さすがのゴンザレスも、善戦をみせたホードを認め、
「ベストコンディションの自分に勝つ可能性のある唯一の選手だ」とその能力を賞賛した。
その後も、
1957年全米優勝者、マルコム・アンダーソン、
1958年グランドスラム3大会獲得のアシュリー・クーパー、
1959年グランドスラム2大会獲得のアレックス・オルメド
などを迎え入れるが、いずれもゴンザレスを脅かすには至らなかった。
【1960年代】
ゴンザレスのあまりの強さは1960年になっても変わらなかった。
興行主のクレイマーにとって、一人の選手が勝ち続けることは意にそぐわないことだった。
しかし、ゴンザレスは最も集客力のある選手だったため、興行から外すことはできなかった。
そこで、この事態を打破すべく、クレイマーは興行主の権限であれこれと画策を行った。
ゴンザレス最大の武器であるサーブ&ボレーを封じるため、サーブ後のファーストショット、
すなわち相手のリターンボールを、一度バウンドさせなければならないというルールを作成した。
また、ゴンザレスを倒した選手には賞金をアップするなど、理不尽ともいえるゴンザレス対策が講じられた。
それでもゴンザレスは勝ち続けた。一つ二つの武器を封じられたくらいで揺らぐ地盤ではなかったのだ。
逆に、ネットプレーを武器にしていた他の選手達のレベル低下が招かれてしまい、
結局、この無意味なルール変更はすぐに元に戻されることになった。
依然としてゴンザレス天下は続いていたが、変化も起こっていた。
ローズウォールの台頭が目立つようになってきていたのである。
プロ入り直後は完全にゴンザレスに阻まれていたローズウォールだが
この頃にはトーナメント優勝も多くなり、ゴンザレスの後ろにピタリと付ける存在になっていたのだ。
ローズウォールは若い時から強かったが、年齢を重ねるごとに更にプレーに磨きをかけていった選手だった。
加えてゴンザレスも長期間の欠場をすることが多くなっていった。
1960年はまだ辛うじてといったところで1位の座を守っていたが
1961年になると、強さそのものは相変わらずだったものの、4ヶ月ほどしか試合をこなしておらず、
年間トータルの活躍でローズウォールに1位の座を明け渡す格好となっていた。
そして1962年には両者の立場は完全に逆転することとなった。
ゴンザレスとの対戦では、生涯を通じて遅れを取っていたローズウォールだったが、
この年に関しては、18回の対戦のうち、14勝を上げることができたのだ。
そしてトーナメントでも相変わらずの強さを見せ、確実にNo.1の座を手にすることになった。
※因みに両者は生涯160もの対戦を行い、ゴンザレスの101勝59敗だったという。
1963年に、ゴンザレスは半引退を宣言する。
ツアーから撤退し、年に何回かのトーナメントにのみ参加するようになった。
しかし、半引退とはいえ、ひとたび試合に出れば、依然その強さを発揮し続けた。
時にはローズウォールやレーバーなどの大物を倒したこともあったし、
この時代には、アンドレス・ヒメノというレーバー、ローズウォールに継ぐ第3位の選手がいたが、
その選手にゴンザレスは対戦成績で16勝9敗とリードしていた。
実質、半引退でありながらもトップクラスの選手であり続けたことがわかる。
【オープン化】
テニス界は1968年にオープン化を迎え、それまでのプロ、アマ全選手が1つのトーナメントに集中するようになった。
まさに夢の饗宴である。ホードのように、引退していたもののこのために復帰した選手もいた。
ゴンザレスも40歳になっていたが、もちろんこの祭典に参加した。
記念すべき第1回のグランドスラム、1968年の全仏オープンでは、以下のようなシードが発表された。
1.レーバー
2.ローズウォール
3.ヒメノ
4.エマーソン
5.ゴンザレス
6.フレッド・ストール
7.ホード
青:プロ、赤:アマ
やはり、全体的にプロがアマを抑えて評価をもらっていたことがわかる。
ゴンザレスに関しては半引退状態だったにも関わらず第5シードだった。
ホードもかつての実績が評価されて第7という高シードをもらった。
アマチュアでは、ランキング1位のニューカムが出場しなかったため、エマーソンが最高位となった。
それでもエマーソンは全仏のディフェンディングチャンピオンであった。
ゴンザレスは準々決勝に進出し、そのエマーソンと対決した。
5セットにもつれ込む激戦だったが、ゴンザレスはエマーソンを下した。
エマーソンも全盛期を過ぎていたことは事実だ。しかし、とはいえまだ32歳。ゴンザレスは40歳であったから、
この試合が「プロ>アマ」という明確な図式を浮き彫りにした試合だったとする見方は強いようだ。
この後、ゴンザレスとエマーソンは12回対戦するが、うち11回ゴンザレスが勝利したという。
ゴンザレスは、その後もトーナメントに出続け、1972年には優勝も飾っている。
この時44歳だったが、これは現在に至るまで最年長優勝記録となっている。
(2位はローズウォールの43歳)
【プレースタイル】
サーブ&ボレーを得意とした選手。
サーブの威力は最高で、戦前のバインズやチルデンにも匹敵するかそれ以上ともいわれた。
戦後のテニス界では文句なく最高のサーブを持つ選手だった。
今日ではあまり参考にならない数字ではあるが、最高速は130mphに達したといわれる。
また別に、112mphといった妙に現実的な数字も残されている。
(112mphというのはフォアハンドのスピードを計ったときの記録だという説もあり)
サーブは速いだけでなく、コースとコントロールも抜群であったといわれる。
そのためセカンドサーブも素晴らしく、ネットダッシュの多用が可能であった。
プロ入り直後のレーバーが「これほど速くこれほど正確なサーブは見たことがない」と言ったほどだ。
ネットプレーはもちろん見事だったが、強いボレーだけでなくハーフボレーの達人でもあった。
クレイマーはゴンザレスのハーフボレーについて「強打を持っているのに、これほどハーフボレーにこだわる理由がわからない」
と言った。しかし「だが、彼は確実にそれを使いこなしていた」と付け加えた。
ストロークも申し分なく、特にフォアハンドは強力だった。
バックハンドも、当時としては少数派のトップスピンショットを打つことができた。
キャリア初期はバックハンドが弱点であったが大幅に改良して得たものだった。
もっとも、後のレーバーほどの完成度には達しなかったようだ。
ゴンザレスの最大の武器はその集中力であった。
あらゆるショットをこなしながら戦術こそが最大の武器と語ったチルデンに通じるものがある。
ある記者は、長年ゴンザレスを追っていたが、セットやマッチがかかった場面で
ゴンザレスがサービスゲームを落とした場面はただの一度も見たことがないと言った。
レーバーも「追い詰めれば追い詰めるほどゴンザレスは強くなる」と言った。
90年代にサンプラスのプレーを観たレーバーが、そのスタイルをゴンザレスと重ねたが
強サーブからのサーブ&ボレー、バックよりもフォア、集中した場面での強さなど、
非常に納得できる見解だといえるだろう。
【ライバルたち】
《ジャック・クレイマー(Jack Kramer)》
ゴンザレス以前の最強選手。
最初の「完全なサーブ&ボレーヤー」であったといわれる。
サービスダッシュ自体はもともと存在していたが、
常にネットダッシュを仕掛けるというスタイルはクレイマーが始めたものだった。
そしてこのスタイルはゴンザレスや多くのオーストラリア選手達に受け継がれていった。
クレイマーはプレイヤーとしてだけではなく、プロモーター(興行主)としても有名な人物である。
その手腕は、前述のゴンザレス対策でルール変更をしてしまったエピソードなどでもわかるとおり、
行動力は抜群であったものの、独善的な手腕が目立ち、悪名高いものとして知られていた。
後にクレイマーはオープン化後のテニス協会を牛耳ることになるが、そのやり方は強引で、
選手たちの反発を招き、70年代のウィンブルドンなどでは多くの選手が不参加を表明したりもした。
このせいで、いまだにイギリスではクレイマーの評価は低いと言われる。
プレイヤーとしては優秀であったのだが、第二次大戦によるアマ時代の活躍の少なさと
引退後の不人気によって随分損をしてしまっている選手だといえるだろう。
《フランク・セッジマン(Frank Sedgman)》
1927年生まれ。
戦後オーストラリアテニス界に現れた最初のスター選手であった。
25歳でプロに転向したため、アマ時代は決して長くはないが、それでもグランドスラムでの活躍は目覚しく、
シングルス、ダブルスを含めると史上3番目の獲得数を誇っている。
(1位はエマーソン、2位はニューカムだが、2人はプロツアーには参加していない)
セッジマンはフィットネスの重要性を考え、初めてテニスにウェイトトレーニングを取り入れた選手だった。
また、どんなプレーでも正確にこなしたため、最も模範的な選手と言われたほどだった。
中でもボレー、フットワーク、そしてフォアハンドが強力な武器だった。
プロ入り直後はクレイマー、ゴンザレスとも互角に戦った。
アマ王者でありながらプロ入り後も不足なく活躍できた数少ない選手の一人と言えるだろう。
1960年代初頭まで現役を続けた。
《パンチョ・セグラ(Pancho Segura)》
1921年生まれ。
パンチョ・ゴンザレスが最強を誇っていた1950年代にプロNo.2として活躍したエクアドルの選手。
2人ともパンチョなので、差し詰め「リトル・パンチョ」といったところだろう。
身長も168cmだったので、186cmのゴンザレスに比べ文字通り「リトル」であった。
ただし年齢はゴンザレスより7歳年上で、一世代前のクレイマーと同じ年だった。
アマチュア時代は、全米で1942年から1945年まで4年連続ベスト4、その後2年間はベスト8という成績を収めた。
見事な記録だが、1度も決勝に進出しなかったというのも面白い。セグラは後にアメリカに帰化するが、
この時はまだエクアドル国籍だったため徴兵されることはなくテニス大会に出続けることが可能だった。
プロには1950年に転向し、長い間クレイマーやゴンザレスに次ぐNo.2の選手であり続けた。
1952年には2人を抑えてプロNo.1の評価も貰っている。
当時、グランドスラムで華々しく活躍してプロ入りした選手が多くいたが
それらどの選手よりもセグラは優れた成績を収めていたといえる。
しかも1951年の時点で既に30歳を迎えていたのだから活動期間も非常に長かったことがわかる。
セグラを最も有名にしているのは、その両手打ちフォアハンドだ。
その威力は凄まじく、それまで誰も打ったことがないといわれるほどの強烈さだった。
この両手打ちフォアというショットはその後市民権を得るには至ってないのだが
間違いなくセグラこそがこれで成功した最初にして最高の選手だろう。
※その後1970年代にジーン・メイヤーが両手打ちフォアを使ったが、
トップ選手としてはセグラ以降唯一の選手と言えるだろう。
※【コラム】の
【テニス史を巡る】、
【テニス史を巡る〜補遺〜】、
【歴史的選手の年間成績】
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