【テニス史を巡る〜補遺〜】
ここでは、【テニス史を巡る】で紹介しきれなかった選手たちを取り上げたい。
【テニス史を巡る】ではオープン化以前にテニス界を引っ張っていった古いチャンピオン達を取り上げたが
ここでは、それらチャンピオンたちの影に隠れながらもテニス史に足跡を残した選手たちを扱っている。
【テニス史を巡る】のフォロー記事ということになるので、先に【テニス史を巡る】をお読みいただければと思う。
【チルデンと同時代のライバル】
チルデンは紛れもなく戦前最高の選手であり、
その歴史的存在感は不滅だが、同時代にはライバルたちも存在した。
チルデンがグランドスラムで活躍した1920年代に、
世界的にチルデンに対抗していたのは、やはりフランス四銃士であった。
しかし、それ以外にもチルデンのライバルは存在した。
《ウィリアム・ジョンストン(William Johnston)》
チルデンが全米6連覇を達成したとき、そのうち5回で決勝の対戦相手となった選手。
6連覇が開始される前年にも両者は決勝で対戦しており、その時にはジョンストンが勝利した。
チルデンよりも1歳若かったがより早くから活躍した選手だった。
全米には2度優勝、1923年にはウィンブルドンでも優勝している。
チルデンと同じ名前であることから、「リトル・ビル」と呼ばれた。
※【ビル・チルデン最強説】にも登場するので参照のこと。
《ジェラルド・パターソン(Gerald Patterson)》
チルデンより2歳下のオーストラリアの選手で、
チルデンが最初にウィンブルドンで優勝したときの決勝の相手だった。
全豪で優勝1回、準優勝3回。ウィンブルドンで優勝2回、準優勝1回という複数グランドスラムにまたがる好成績を収めた。
この頃のオーストラリアにはパット・オハラ・ウッド(Pat O'Hara Wood )、
ジェームス・アンダーソン(James Anderson)という選手もいた。
両者とも全豪で複数回優勝しており、全豪に関して言えば優勝1回のパターソンよりも実績のある選手だったといえるが、
全豪以外での活躍は見られない。
チルデンは1930年にプロ入りを果たし、活躍の場をプロ大会に移した。
そこでのライバルとして以下のような選手たちがいた。
《ビンセント・リチャーズ(Vincent Richards)》
チルデンより10歳年下だが、同時期にプロ入りした最初期のプロ選手。
1924年にはフランス四銃士を凌いでオリンピック金メダルを獲得した。
プロ大会成績は優勝4回、準優勝2回
※【ビル・チルデン最強説】にも登場するので参照のこと。
《エルスワース・バインズ(Ellsworth Vines)》
リチャーズよりも更に8歳年下、チルデンよりは18歳年下の選手。
やはり最初期にプロ入りを果たし、優勝5回、準優勝1回という好成績を収めた。
プロ入り以前にグランドスラムでも優勝を経験している。(全米2回、ウィンブルドン1回)
バインズはアマチュアとしての期間が短いのでその活躍が語られることは少ないが、
紛れもなく当時の一流の選手であった。(バインズについては【ペリーvsバインズ】も参照のこと)
※チルデンのプロ大会での優勝回数は4回である(準優勝も4回)。
リチャーズ、バインズもほぼ同じ優勝回数であり、かなり善戦していたことがわかる。
しかし、プロ入りを果たしたときチルデンは既に37歳であった。
そのことを考慮すれば歴史上のチルデンの偉大さは抜きん出ていると言うほかないだろう。
初期のプロ大会はアメリカの選手が中心だったが、他の国の選手も何人か活躍している。
《ハンス・ニュスライン(Hans Nusslein)》
プロ大会最初期に活躍したドイツの選手。
アマチュアとしてのキャリアはないが、プロ大会では優勝3回、準優勝3回という成績を残している。
バインズの1歳年上で、初期プロ選手の中では特に若い選手の一人。
※【ペリーvsバインズ】にも登場するので参照のこと。
《カレル・コジェルフ(Karel Kozeluh)》
旧チェコスロバキアの選手。プロ大会成績は優勝4回、準優勝4回。
チルデンと並ぶ優れた成績を収めている。
また、驚くべきことに、他の選手がチルデンよりも遥かに若かった中で、
コジェルフはチルデンよりも2歳だけ年下というベテランだった。
チルデンの真のライバルはコジェルフだったのかもしれない。
因みにこの選手はチェコスロバキア代表のサッカー選手であり、
プロアイスホッケー選手でもあるという異色の経歴を持っていた。
※【ビル・チルデン最強説】にも登場するので参照のこと。
※レンドルも「あなたはナンバーワンのテニス選手ですが、一番得意なスポーツはゴルフだそうですね」
という質問をされたとき「それは違う。アイスホッケーだよ」と回答している。
チェコはアイスホッケーが盛んだったのだということを伺わせるエピソードである。
【第二次世界大戦期】
第二次大戦は当然のことながらテニス界にも大きな影響を与えた。
グランドスラムは全米以外が中止され、プロ大会も全米プロ以外は開催されなかった。
中でも戦争の影響を最も多く受けたのは、やはりドイツの選手だった。
《ゴットフリート・フォン・クラム(Gottfried Von Cramm)》
戦前から戦中に活躍したドイツの選手。
フレッド・ペリーと同年であるが、当時最強を誇っていたペリーや
ドン・バッジと対戦しなければならなかったという不運があった。
グランドスラムでは5度の準優勝があるが、そのうち3回がペリー、2回がバッジに敗れてのものだった。
ただし、全仏でのみは2度の優勝を果たしており、1度は決勝でペリーを破っている。
この選手のより大きな不幸は、テニスのプレーに関するものではなく、ナチスに投獄されてしまったことだろう。
戦後もデビスカップなどでプレーしているが、戦争がなければもっと活躍することができた選手だった。
※【ペリーvsバインズ】にも登場するので参照のこと。
1941年から1945年までのグランドスラムは全米を除き全て中止された。
そして戦後テニス界の勢力図は戦前と比べても大きく変化していった。
しかし、その中で例外的な記録を残している選手がいる。
《エイドリアン・クイスト(Adrian Quist)》
《ジョン・ブロムウィッチ(John Bromwich)》
2人とも今ではあまり記憶されていないオーストラリア選手である。
クイストは3度、ブロムウィッチは2度全豪で優勝している。
クイストの優勝は、1936年、1940年、1948年、ブロムウィッチは1939年、1946年である。
今では忘れられた2人だが、グランドスラムの中止前と中止後の両方で優勝したのはこの2人だけであり、
その意味でも戦後テニス界復興の先駆けとなった選手たちだった。
クイストは初優勝と3回目の優勝の間に12年という年月の隔たりがあり、長期に渡ってテニス界を支えていたことがわかる。
またブロムウィッチは、優勝こそ2回だが、中止前に3年連続、中止後には4年連続で決勝に進出するという活躍を見せている。
オーストラリア選手といえば、戦前のクロフォードと戦後のセッジマンという2人の巨人に挟まれているため
歴史の影に埋もれてしまっている感もあるが、このような選手達が確かにいたのだと記憶しておく必要もあるだろう。
余談だが、この2人はダブルスパートナーとして多くの活躍をした。
※両者についてはブログ内で取り上げたことがあるので参照のこと。
【戦後のテニス界】
戦後のテニス界はオーストラリア選手がグランドスラム大会を盛り上げる一方で
プロ大会も並行して行われ、こちらも盛り上がりを見せていた。
《ボビー・リグス(Bobby Riggs)》
1940年代を代表するアメリカの選手。戦前から活躍していた。
バッジが年間グランドスラムを達成した翌年に、
ウィンブルドンと全米で優勝、全仏で準優勝という結果で華々しく登場した。
リグスはその後も全米で優勝し1942年にプロに転向した。
プロ入り後は、バッジと勢力を二分する選手となった。
小柄でパワーに乏しかったが、ロブやドロップショットを得意とする技巧の選手であり、
強打自慢のバッジとは好対照の名手であった。
プロ大会での成績は優勝4回、準優勝4回。
《ジャック・クレイマー(Jack Kramer)》
記録からではわからない名選手の一人。
1946年に全米、1947年にはウィンブルドンと全米で優勝してプロ入りを果たした。
1946年は2敗、1947年は1敗しかしなかったという。
プロに入っても強さは変わらず、リグスを相手に対戦成績で大幅に上回り、
プロ入りしたてのパンチョ・ゴンザレスをも寄せつけなかった。
辛うじてフランク・セッジマンのみが互角に戦えたという。
プロ大会優勝は僅かに2回だが、戦後の混乱で大会が制限されていた時期だけに仕方ないといえるだろう。
時代が違っていれば、勢力図を大きく塗り替える力を持っていた選手であった。
《パンチョ・セグラ(Pancho Segura)》
クレイマーと同じ年齢の選手だが、
7歳年下のゴンザレスの時代にプロ大会で活躍したエクアドルの選手。
強烈な両手打ちのフォアハンドが有名だった。
プロ大会での成績は優勝3回、準優勝8回。
準優勝が多いが、安定した成績を収めていたともいえる。
50年代、ゴンザレスに次ぐ2番手のプロ選手だった。
アマチュア時代は全米で6年連続準決勝に進出するものの決勝には進めなかった。
しかし、グランドスラム以外の優勝は多く、生涯を通じて最強のNo.2という異色の選手だった。
クレイマー、セグラについては
【パンチョ・ゴンザレス最強説】でより詳細に取り上げているので参照のこと。
《テッド・シュレーダー(Frederick "Ted" Schroeder )》
ジャック・クレイマーと同年齢のアメリカ選手。2人はダブルス・パートナーでもあった。
ダブルスの活躍が有名だが、シングルスでも1942年に全米で優勝し全米No.1になった。
第二次大戦期の徴兵により一時的にブランクが空くものの復帰後も変わらぬ活躍をみせた。
やはりダブルスの比重が大きかったが、シングルスでも1949年のウィンブルドンで優勝している。
戦後のアメリカデビスカップ4連覇の立役者であり
1946-49年まで4年連続でアマチュアランキング2位という選手だった。
その後、友人であるクレーマーからプロ入りの誘いを受けるが断り、30歳で引退した。
《フランク・パーカー(Frank Parker)》
1940年代に全米優勝2回、全仏優勝2回を達成したアメリカの選手。
1948年にはアマチュアランキング1位を獲得し、翌49年にはプロに転向した。
1932年から17年間に渡りアメリカ国内ランキングトップ10をキープした。
これは1988年にコナーズによって破られるまで最長の記録だったという。
プロ入り後は、既にベテランだったこともあり目立った活躍はしていない。
1968年には52歳という史上最高齢で全米に出場したが、1回戦で優勝者のアッシュに敗れた。
《バッジ・パティ(Budge Patty)》
1950年に全仏とウィンブルドンに優勝し、同年のアマチュアランキング1位を獲得したアメリカの選手。
大きなタイトルはこの年の2つだけだが、長年にわたって安定した成績を収めた。
15年に及ぶテニス生涯で76のタイトルを獲得したと言われる。
《ビクター・セイシャス(Vic Seixas)》
1953年にグランドスラム3大会で決勝に進出、うちウィンブルドンで優勝を飾ったアメリカの選手。
翌年の全米でも優勝を飾った。非常に長い間プレーをし、全米出場は1940-69年の間に28回を数えた。
生涯タイトル数は56、ベストイヤーである1953年には年間13勝を果たした。
《ヤロスラフ・ドロブニー(Jaroslav Drobny)》
旧チェコスロバキアの選手。1959年にイギリスに帰化した。
1950年代に活躍し、全仏で2度優勝、3度準優勝、ウィンブルドンでも1度優勝、2度準優勝という成績を収めた。
この頃のアマチュアのグランドスラム大会はオーストラリア選手全盛時代にあたるが、
その中にあって、複数のグランドスラムに勝つことのできた数少ないオーストラリア以外の選手の一人である。
生涯133大会で優勝したと言われている。
コジェルフと同様、冬にはアイスホッケー選手としてプレーした。
《マヌエル・サンタナ(Manuel Santana)》
スペインの選手。やはりオーストラリア選手たちの中にあって果敢に戦った選手。
特に1960年代はグランドスラムのほとんどでオーストラリア選手が優勝したが、
サンタナは唯一人オーストラリア人以外で複数グランドスラムに勝つことのできた選手である。
(全仏2度、ウィンブルドンと全米で1度ずつ)
※サンタナについてはブログで取り上げたことがあるので参照のこと。
《アレックス・オルメド(Alex Olmedo)》
ペルーの選手。後にアメリカに帰化。
1959年に全豪とウィンブルドンで優勝、全米で準優勝を果たした。特にウィンブルドンはレーバーを破っての優勝だった。
そしてその直後にプロに転向し、最初の年にいきなり全米プロで優勝した。
この優勝によりパンチョ・ゴンザレスの連覇は7でストップすることになる。
50年代には、鳴り物入りでプロ入りしたものの、今ひとつ活躍できなかった選手が多くいたが、
オルメドは、それらよりも遥かにセンセーショナルなデビューを果たしたことになった。
しかし、それ以降はブレーキがかかり、プロトーナメントで決勝に進出することはなかった。
《マルコム・アンダーソン(Mal Anderson)》
ローズウォール、ホードと同世代のオーストラリアの選手。
しかし同時代には優れた選手が多かったため、大きなタイトルは少なかった。
グランドスラムはローズウォール、ホードがプロ化した後に獲得した1957年の全米のみ。
その後、アンダーソンもプロ入りを果たし、1959年のウェンブリーでは優勝を飾った。
大きな優勝はそれだけだが、1958年と1972年では全豪準優勝を果たしている。
50年代グランドスラム、60年代プロ大会、70年代オープン化後のグランドスラムと
この3つにおいて全てで決勝に進出した選手はローズウォール、レーバーとアンダーソンだけである。
《アンドレス・ヒメノ(Andres Gimeno)》
スペインのテニス選手。
レーバー、ローズウォールに次ぐNo.3のプロ選手として活躍した。
プロ大会では4度の決勝進出があるが、レーバーとローズウォールに阻まれていずれも優勝できなかった。
しかしグランドスラムがオープン化すると、1972年に全仏で優勝を果たした。
大きなタイトルはこれだけだが、1967年以前のプロ大会で決勝進出経験があり
オープン化後のグランドスラムで優勝している選手というのはレーバー、ローズウォールとこのヒメノだけである。
同年代のアマチュア選手はオープン化後にほとんど活躍しなかったが、それに比べてプロ選手はしっかりと活躍をみせた。
当時プロがアマチュアよりも高いレベルであったことが証明されているといえるだろう。
※ヒメノについてはブログで取り上げたことがあるので参照のこと。
《ラファエル・オスナ(Rafael Osuna)》
メキシコ人としては初の世界的な選手。
レーバーと同年で、さすがに同世代のオーストラリア選手達には押され気味だったが、
それでも1963年に全米で優勝し、同年のアマチュアランキング1位を獲得した。
1969年、まだ現役だったが不幸な飛行機事故により命を落とした。
※【コラム】の
【テニス史を巡る】、
【歴史的選手の年間成績】
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