【ビル・チルデン最強説】
ビル・チルデン(Bill Tilden)
本名:ウィリアム・ターテム・チルデン2世(William Tatem Tilden II)
1893年生まれ。
通称はビル・チルデン。長身のためビッグ・ビルと呼ばれた。
男子テニス史を語るにおいて、チルデンの名前を避けて通ることはできない。
彼こそはミスター・テニスであり、全てのテニス選手の始祖とも言うべき存在であった。
【キャリア初期】
チルデンのテニスキャリアは1912年に始まっていたが、
テニス史に名前が登場するのは1918年の全米が最初である。
この時、チルデンはシングルスで準優勝、ビンセント・リチャーズと組んだダブルスでは優勝を飾った。
パートナーのリチャーズはなんと15歳だったが、チルデン本人は既に25歳であった。
テニス史に名前を残す選手としては少々遅い登場といえる。
時期的に第一次大戦が重なっており大会数が少なかったという事情もあるが、
初期のチルデンは主にダブルスでのみ活躍する選手だった。
翌1919年にもチルデンは全米決勝に進出するが、またしても決勝で敗れてしまった。
このときの相手はウィリアム・ジョンストン。小柄だったためリトル・ビルと呼ばれた選手で、
チルデンの最初のライバルとも言うべき選手であった。
この敗戦をきっかけに、チルデンはストロークを大幅に改良した。グリップから見直したというから徹底的な改造である。
そして1920年、チルデンはウィンブルドンを制し、全米でも初優勝を達成した。
ウィンブルドンの決勝の相手は当時世界一と言われたパターソンであり、全米の相手はライバル、リトル・ビル・ジョンストンだった。
この年ようやく世界最高選手の称号を得たチルデンは、その後長きに渡って世界の王座に君臨し続けることになる。
【1921年】
(ジョンストンとチルデン)
1921年という年は、テニス史において記念すべき最初の国際年であるとされる。
もちろんそれ以前にも世界を回る選手はいた。しかし、多くのトップ選手たちが海を越えて、
アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアを行き来して世界大会への転戦を開始したのは正にこの年だったのだ。
この記念すべき年にもチルデンは前年同様ウィンブルドンと全米で優勝し圧倒的な強さを見せ付けた。
チルデンとジョンストンという2人のアメリカ人に対抗できる選手はいなかったと言われる。
この年の全米では、最強のはずの2人が早いラウンドで対戦することになってしまった。
この時はシード制度というものが存在しておらず、組み合わせによってこういうことも起こっていたのだ。
結果はチルデンが勝ち、実力2位のジョンストンが早い段階で姿を消すことになった。
しかし、両者の決勝での対戦を楽しみにしていたファンの不満もあり、
これ以降のトーナメントではシード制度が導入されることとなった。
その後、2人は毎年全米決勝を戦うことになる。
向うところ敵なしのチルデンが最も重要視したのは、他のどの大会でもなく、国別対抗戦デビスカップだった。
1921年にウィンブルドンで優勝したチルデンは、その後しばらく国外に出るのを取り止めた。
デビスカップに専念するためだ。
国別対抗戦とはいえ、アメリカが優勝し続けている限り、試合はアメリカで行われる。
勝ち続けてさえいれば国外に出る必要はないのだ。
【国内のみでの活躍】
チルデンが国内のみで活躍していた数年間、アメリカは国際大会に第2の選手を送り出した。
1923年のウィンブルドンにはリトル・ビル・ジョンストンが出場し、圧倒的な強さで優勝をさらった。
チルデンがいない大会では、ジョンストンは敵なしだった。
1924年にはパリでオリンピックが開催された。
アメリカからは若いリチャーズが出場し、地元フランスの強敵アンリ・コシェを撃破して金メダルを獲得した。
この時代、第2の選手でさえアメリカは世界最強だったのだ。
【最強時代:1925年まで】
一方、アメリカ国内のチルデンはどうだったのか。
最大の大会である全米では1925年まで42連勝を含む6連覇を達成。
1924年から1925年にかけては98戦(一説には95戦)無敗の連勝記録を達成。
1925年には年間成績78勝1敗(93.73%)という前人未到の記録を樹立。
最重要のデビスカップでも1925年までシングルス無敗であった。
国内のみとはいえ、アメリカに遠征に来る海外の一流選手も多くおり、
それら全てをチルデンは撃破した。文字通り最強の選手だった。
また、国内での生活に専念できたチルデンは、テニス以外にも多彩な方面に活躍の場を求めることができた。
元々オペラ歌手を目指していたと言われるように芸術に興味があり、ブロードウェイの劇作家や俳優としても仕事を行った。
現在も有名なテニスに関する著作「ローンテニスの芸術(The Art of Lawn Tennis)」を執筆したのもこの時期だ。
もっとも、これらの副業、特に劇作家業などはそれほど高く評価されるものではなかった。
やはりチルデンといえば、コート内でこそ、その最高の芸術を発揮することができたといえる。
最強チルデンを表すエピソードも多くある。
・チルデンはその大きな左手に4つのボールを持ってサービスゲームを開始することで知られていたが、
3つまで連続でエースを取り、しかし4つ目にエースを外してしまうと気分を害しそのままコートを離れてしまった。
・審判のミスジャッジがあると、わざと相手にセットを取らせ、仕切りなおしをしてから試合を続行した。
・自分とスタイルの違う選手と対戦すると、相手のプレーを模倣した。
例えば1921年にルーマニアのミシュ(Mishu)という選手と対戦したとき、
この選手はパワー型のチルデンとは全く違うプレーを得意としていたが、チルデンは自分のプレーをせず、
相手のドロップショットやロブなどを忠実に再現し、しかもそれらをものにして試合に勝ってしまった。
ただ完勝することを好まず、プレーに劇性を求めていたことが感じられるエピソードだ。
【1926年以降】
チルデンのその圧倒的な最強時代に翳りが見え始めたのが1926年だった。
この年、生涯無敗を続けていたデビスカップで、フランスのラコステに敗北を喫してしまったのだ。
この時はリトル・ビル・ジョンストンがそのラコステに勝利したので
デビスカップのタイトル自体がフランスの手に渡ることは食い止めることができたが、
チルデンとしては衝撃の敗退となった。
また、6連覇中の全米でも準々決勝でフランスのアンリ・コシェに敗れたのであった。
チルデンが国内で活躍している間に、ヨーロッパではフランス四銃士が台頭してきていたのだ。
1926年の全米はこのフランス台頭の象徴というべき大会だった。
ベスト8にはフランス四銃士全員が勝ち上がり、
4試合全てがアメリカ選手vsフランス選手となった。結果は以下のとおり。
×チルデン vs コシェ○
×ウィリアムズ vs ラコステ○
○リチャーズ vs ブリュノン×
×ジョンストン vs ボロトラ○
アメリカも国内トップ4が顔を揃えたが、実に1勝3敗。
唯一フランス勢に勝ったリチャーズも、次の準決勝でボロトラに敗れた。
1926年、チルデンは世界1位の称号をルネ・ラコステに譲ることになった。
翌1927年。チルデンは遂に封印を解き、1921年以来の海外遠征を決意した。
ラコステとコシェに勝利し、世界1位を取り戻すためだ。
まずチルデンは全仏に登場し決勝進出を果たした。フランス人以外の決勝進出は史上初めてだった。
しかし決勝で宿命の相手ラコステに敗北した。
ウィンブルドンにも6年ぶりに登場した。準決勝でもう一人の敵コシェと対戦した。
チルデンは2セットを先取。第3セットも「5-1」とリードしたが、
なんとそこから15ものマッチポイントを逃し、遂に逆転負けを喫してしまった。
ホームグラウンドである全米では決勝に進出したがまたもラコステに敗退。
そしてデビスカップでもラコステに敗れ、国レベルでもアメリカはフランスに世界一を奪われてしまった。
チルデンは充分に世界レベルの選手ではあったが、覇権は完全にフランスに移行してしまっていたのだ。
チルデンはこの頃プロ入りの打診を受けていた。破格のオファーだったが、
それは、収入は大幅に増えるものの、他の大会への出場はできなくなることを意味した。
当時プロ選手はアマチュア大会への出場を一切認められていなかったのだ。
グランドスラム、そしてとりわけデビスカップを取り戻すため、チルデンはプロ入りを拒否し続けた。
1928年はしかし、そんなチルデンにとって悲運の年となった。
この年はデビスカップに力を入れるため、全仏には出場しなかった。
ウィンブルドンには出場したが、またもラコステに準決勝で敗北した。
そしてその後、ある新聞記事への寄稿が原因で起訴され、6ヶ月の出場停止処分が下されてしまった。
すなわち全米、そしてデビスカップへの参加は不可能になってしまったのである。
【アマ最後の2年】
出場停止からの復帰後、チルデンはグランドスラムで最後の花を咲かせた。
1929年に全米で優勝、1930年にはウィンブルドンで優勝を飾った。
チルデン37歳であったが、劇的な復活だったといえるだろう。
そしてチルデンはこの直後にプロ入りすることを決意した。
ただ、思い残しもあった。まずデビスカップをフランスから取り戻せなかったこと。
そして、ラコステとコシェに勝ってグランドスラム優勝を飾れなかったことだ。
1929年の全米では両者欠場。30年のウィンブルドンではコシェは出場したが早期敗退だった。
チルデンはこの鬱憤をフランス四銃士の3人目、ジャン・ボロトラとの対戦で晴らすしかなかった。
1930年ウィンブルドン準決勝のボロトラ戦は5セットにもつれ込む大熱戦だったが、
チルデンはこの著名なネットプレイヤーを相手に徹底した強打で応戦した。試合中ロブは1度しか打たなかったという。
かつての、相手のプレーを完璧に模倣した余裕の王者の姿はそこにはなかった。
チルデンのラコステとコシェに対する思いは強く、その後死ぬまで2人に対する思い出を語り続けたと言われる。
【プロ化】
チルデンは1930年にプロ入りを果たす。
このとき、プロではリチャーズとコジェルフが王座を分け合っていたが、
チルデンが参戦するとすぐに王座を奪い取ることに成功した。
その後、プロにはバインズ、コシェ、ペリー、バッジといった名選手が続々と参戦していった。
一説に、プロ選手は1930年代前半には30人程、後半には80人以上いたというから
かなりの盛り上がりを見せたことがわかる。
チルデンは1939年(46歳!)まで現役生活を続けた。
(スポット参戦なども含めれば更に後年まで試合に出ている)
1935年には、プレイヤーでありながらコーチ業も開始した。
これは、プロスポーツ史における最初期のトレーナーだったといわれる。
【プレースタイル】
長身から繰り出されるパワーが有名だが、同時に完璧で緻密なプレーを得意とする選手だった。
体格に恵まれており、その広い肩幅はまるで馬のようだと言われた。
手足も長くリーチが広かった。コシェは「3歩でコートを横断できる」とその大きさを評した。
また、大柄でありながら反応速度がすばらしく、どんな球でも返すことができた。
サーブは当時最強のもので、後にバインズが登場するまで、他を寄せ付けない断トツの武器だった。
その測定記録は、現在では信用度の薄いものとしか言えないが
128.4mph(206.6km/h)、151.2mph(243.3km/h)、163.6mph(263.3km/h)などという数字が残っている。
ストロークも強力だったが、強さよりもずば抜けたコントロールと様々な球種こそが真の武器だった。
そのショットの多彩ぶりは、試合中に同じショットを2度打たなかったというエピソードがあるほどであり、
チルデン本人も、どのショットでもなく「戦術」こそが自分の最大の武器であると周囲に語った。
新たなプレーの開発にも余念がなく、1934年にライバルのコシェがプロ入りしてきた時にも
40歳であったにも関わらずコシェ対策の新しいストロークを開発したといわれている。
【ライバルたち】
生涯にわたってほぼ最強を誇ったチルデンだが、
それを最も苦しめたのがフランス四銃士のラコステとコシェである。
《ルネ・ラコステ(Rene Lacoste)》
1904年生まれ。
四銃士で最も若い選手であり、1923年にデビスカップ代表に選ばれてからトップ選手の仲間入りを果たした。
1925年に全仏とウィンブルドンを制し、翌年には全米で優勝。グランドスラムのうち3大会で優勝した最初の選手となった。
1926-27年の2年間はチルデンを抑えて世界1位の選手だった。
その強さから、アメリカのマスコミに「クロコダイル」というあだ名をつけられた。
プレーは、サーブ、ストロークとも強力で正確、ボレーもフットワークも質の高い選手だった。
一方で最高の武器があるわけではないため、特徴がなくつまらないプレーをすると評されることもあったが
全てを高い次元でこなす選手だったといえる。
急激にトップに上り詰めた選手だが、1929年、わずか25歳というときに体を壊して引退してしまった。
その後何度か返り咲きを目指したこともあったが、結局実ることはなかった。
25歳でようやく歴史の表舞台に登場したチルデンとは全く対照的である。
グランドスラムでは4勝0敗と何度もチルデンを倒したが、
デビスカップでの対戦成績は2勝2敗であった。
《アンリ・コシェ(Henri Cochet)》
1901年生まれ。
四銃士中最強との呼び声高い選手。
小柄でパワーはなかったが、フットワークとテクニックを駆使して世界の頂点に上り詰めた。
テニスにライジングショットという概念を持ち込んだ最初の選手といわれる。
ラコステ同様、全豪以外の3つのグランドスラムで優勝した。
特に1927年のウィンブルドン優勝は今でも語り草となっている。
準々決勝ではフランク・ハンターと対戦。2セットを先取されるも、その後3セットを取って逆転勝ち。
準決勝はチルデンと対戦、やはり2セットダウンのそれも「1-5」ダウンから逆転勝ち、
そして決勝でもボロトラを相手にやはり2セットダウンから逆転勝ち、見事な大逆転優勝を達成した。
1928年にはラコステから世界1位の座を奪い、その後1931年まで4年間アマ最強選手として君臨した。
1934年にプロ入りし、プロの世界でもチルデンと対戦した。
1938年には37歳でありながらフレンチ・プロで優勝を果たしている。
非常に息の長い選手だった。
チルデンとの対戦成績は、
グランドスラムでは4勝1敗、
デビスカップでは3勝1敗と大きくリードしている。
ただし、3大プロ大会では0勝3敗であった。
《ジャン・ボロトラ(Jean Borotra)》
1898年生まれ。
四銃士の一人。ラコステ、コシェに隠れているが、実力、実績共に充分の名選手。
当時世界最高峰のネットプレーを持っていた選手であり、シングルスでもダブルスでも活躍した。
グランドスラムの獲得も多く、ラコステとコシェが達成しなかった全豪優勝をフランス人として初めて達成した。
全米でのみ優勝できす準優勝に終わったが、4つのグランドスラム全てて決勝に進出した最初の選手となった。
黒いベレー帽が特徴で、非常に人気の高い選手だったという。
グランドスラムとデビスカップでそれぞれ4回ずつチルデンと対戦しており、全て敗れている。
《ビンセント・リチャーズ(Vincent Richards)》
1903年生まれ。アメリカの選手。
チルデンよりも10歳年下だが、ほぼ同時代の選手といっていいだろう。
ダブルスでは15歳の時にチルデンと組んで全米優勝を果たしたが、
シングルスで頭角を現したのは1920年代中頃で、
1924年に21歳でオリンピック金メダルを獲得した。
グランドスラムの最高成績はベスト4で
全米では1924-26年までの3年連続、全仏では1926年の1回達成している。
しかし、1926年にプロツアーが始まると最初に契約した選手となったため
グランドスラムで活躍する期間は少なかった。
1926年といえば、丁度ラコステがチルデンから王座を奪った年に当たる。
リチャーズはそのラコステと1歳差であったということを考えると、
もしもプロ契約せずにアマチュアで活躍していたら、あるいはフランス勢に対抗する強力な選手となったかもしれなかった。
事実、20年代後半のプロテニス界ではコジェルフと並び最強選手の座に君臨していたのだ。
ボロトラにも匹敵する、トップクラスのネットプレーを持つ選手であり、
ストロークとフットワークが自慢のコジェルフとは好対照なライバル関係であったといわれる。
《ウィリアム・ジョンストン(William Johnston)》
通称:ビル・ジョンストン(Bill Johnston)
1894年生まれ。
チルデンの最初のライバルというべき選手。
1915年には全米で優勝を果たし、翌1916年にも準優勝になっている。
チルデンより1歳若かったがより早くから活躍していた。
全米では、1919年から1925年まで7年連続でチルデンと顔を合わせた。
1921年のみ早いラウンドだったが、それ以外はすべて決勝だった。
最初のみジョンストンが勝ったが、後の6戦は全てチルデンが勝利した。
デビスカップでもチルデンと共に活躍した。
1925年までの両者は無敵で、チルデンは無敗、ジョンストンは1敗しかしなかった。
1926年のフランス戦ではチルデンがラコステに敗れたが、
ジョンストンがそのラコステに勝利しフランスの手に優勝が渡るのを食い止めた。
翌年の1927年に引退。33歳だった。
小柄のため、強いサーブやスマッシュは持たなかったが、ネットプレーやアングルショットに秀でていた。
そして当時最強といわれた強烈なフォアハンドが最大の武器であり、
この時代としては異例の厚いグリップによるトップスピンを打ったという。
バックハンドはフォアと同じ面を使う、いわゆる軟式打ちだった。
チルデンとの対戦は、グランドスラムでは1勝6敗だったが
トータルでは7勝11敗であった。
《カレル・コジェルフ(Karel Kozeluh)》
1895年生まれ。プラハ出身。
プラハは現在はチェコに当たるが、当時はオーストリア・ハンガリー帝国であった。
多才な選手で、テニスの他にサッカーやアイスホッケーの選手としても活躍した。
サッカーではオーストリア代表とチェコスロバキア代表の両方でセンターフォワードとしてプレーした。
テニスのキャリアも特殊で、グランドスラム等のアマチュア大会への出場経験は一切なかった。
ヨーロッパでは1920年代にいわゆるレッスンプロによる小規模なエキシビジョン興行が行われており
コジェルフはもっぱらそこでプレーしていた。そこでの強さは圧倒的で連戦連勝だったといわれる。
1926年にプロツアーが開始されると最初期の契約選手となった。
既に30歳を過ぎていたがようやく表舞台に立ったことになる。
20年代後半のプロツアーではリチャーズとの二強時代を形成した。
特にクレーコートでは圧倒的に強かった。
両者の対戦成績は4年間でコジェルフの24勝9敗であったという。
また30年にチルデンがプロに登場すると、そのよいライバルとなった。
当時若い選手の多かったプロツアーにあって、2人は大ベテラン(37歳と35歳)であった。
ただし、コジェルフはヨーロッパのクレーコートで育ってきた選手であり
プロツアーでメインとして使用されていたインドアコートの経験がなく、
それをかなり苦手しており、慣れるのに随分苦労したようだった。
1930年にはチルデンと67戦を行い、チルデンの50勝17敗という数字だったが
その内訳は、インドア:26-1、グラス:2-0、ハード:3-5、クレー:19-11というもので、
インドアを除きさえすれば好勝負といえる対戦であった。
コジェルフは小柄(約170cm)な選手で抜群のフットワークを持っていた。
そのスピードはチルデンを驚愕させたという。
薄いグリップを使い、フォアでもバックでもグリップチェンジはしなかった。
また、フットワークを活かし、ベースライン後方でボールを拾うスタイルを基本としており
ハードヒットもネットプレーも滅多に見せることはなかったという。
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